2014年1月より毎月最終日曜日発行の『KAHOKUひまわりクラブ』で連載してまいりました「片平の散歩道」は、2015年12月をもって終了いたしました。ご愛読ありがとうございました。
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金研のまち 時はゆっくりと
平成27年もあと少しとなった冬の土曜の昼下がり。低く照らす柔らかい陽ざしを正面から受けながら裁判所前の片平丁通りを霊屋橋方向に歩く。右手には広瀬川と評定河原、そして仙台城址が冬枯れの風情を見せる。冬の風物詩となった光のページェントに彩られる街中の通りとは異なり、ここ片平界隈には藩政以来のゆっくりとした時間が流れている。
少し歩いて、片平小学校、魯迅の下宿跡の碑を過ぎると左手に東北大片平キャンパスが広がる。この「片平の散歩道」は今回が最終回。来年5月に創立100周年を迎える東北大学金属材料研究所-通称「金研」-が歴史を刻んだ片平とその周辺を気ままな散歩日記風に紹介してきた。ちょうど2年をかけてぐるっと一回りしてスタート地点に帰ってきた。
100年前にさかのぼる。第1次世界大戦の影響により日本でも種々の工業用材料の輸入が制限されていた。特に化学薬品や鉄鋼が不足し、国内で自給する必要に迫られた。1915(大正4)年に東北帝大に臨時理化学研究所が設けられた。ここではまず化学製品の研究が行われた。翌1916年、理科大学教授であった本多光太郎は鉄鋼の研究のために第二部を設けた。これが現在に至る金研の発祥である。このときの研究所の設立や運営に必要な一切の経費は寄付金で賄われた。現在では、産業界と大学の連携は珍しいことではないが、「役に立つ金属材料研究」への期待が大正初期の経済発展の時代にはあったのだろう。
臨時理化学研究所第二部は、1919(大正8)年に鉄鋼研究所、1922年に金属材料研究所と名称を変えながら規模を大きくしていく。それと同時に、この100年の間には研究の対象も変化し拡がっていった。設立当初はまさに「鉄と鋼(はがね)」が研究の中心だった。特にKS磁石鋼と呼ばれる当時世界最強の永久磁石の発明は有名で、ハイブリット自動車に使われる電気モーターに必要不可欠な高性能磁石につながっている。東北金属工業(現 NECトーキン)、東洋刃物、東北特殊鋼などの会社が設立され研究成果が製品化された。
現在も変わらず研究所の名前には「金属材料」を冠してはいるが、今はセラミックス材料、太陽電池や発光ダイオードとなる半導体、さらにはやわらかい有機材料に至るまで幅広い材料の基礎と応用の研究を行っている。これからの100年においても時代の変化に合わせた最先端の材料研究とともに、流行に惑わされない学問の府として片平の地に深く静かに根差してその歴史を刻んでいくだろう。
来春には、100周年に合わせて改修中の資料展示室、本多光太郎の執務室であった記念室もリニューアルして皆さんをお迎えします。(T)
今回の散歩道マップ
[第24回 最終回] 2015年12月27日号

鹿落観音堂から望む仙台の市街地。
霊屋橋も小さく見える
人つながる 鹿落坂の観音堂
青空が広がると足取りも軽くなる。いつもの散歩道を遠回り。片平の通りから霊屋橋に下り、鹿落坂(ししおちざか)を上った。
右手の斜面は瑞鳳殿の背中部分に当たり、左手の眼下には広瀬川が緩やかに流れる。岸辺に倒れる何本もの枯れ木が気になってカメラを向けると、すれ違う人に声を掛けられた。「9月の豪雨でやられたんですよ。水流が激しく、遊歩道の辺りまで水が上がったそうです」。穏やかな日常に突然牙をむく、自然の脅威をあらためて感じた。
その昔、鹿落坂は白河から国府の多賀城まで続く東街道の一角だった。人々は鹿落坂を下って今の霊屋橋の辺りから米ケ袋に抜けたと伝えられるが、もっと昔は動物の通り道。餌を求めたシカが、この坂を下りて広瀬河原にやってきた。仙台弁で「落ちる」は「下りる」の意味。「いつしか鹿落坂と呼ばれるようになった」という説がある。
◆ ◆
鹿落坂を上った右手の急な石段の奥に、仙台三十三観音巡りの札所になっている大蔵寺観音堂(鹿落観音堂)がある。かつて大蔵寺は青葉山にあったが、仙台城の築城に伴って経ヶ峯に移転。その後現在地に移るが、明治になって昌傳庵の(若林区荒町)に統合されてお堂だけが残った。中に聖観音像が祭られている。境内の一端から市街地が一望できる。はるか遠くに海。渡ってきた霊屋橋も、青空の下では小さく見える。「今日は観音講。ご縁だからお入りなさい」。尼僧に声を掛けていただいた。毎月17日は観音様に祈りをささげる集まりがあり、お昼をいただきながら一時を過ごす。お膳にはくりご飯やごま豆腐など手作りの精進料理が並ぶ。
「もうすぐ88歳ですが、毎月ここに来るのが楽しみなの」「人生いろいろあるでしょ。観音様を拝むと癒されます」
初めて会ったのに、旧知のように話しかけてくれる。心地良さに箸が進んだ。
観音堂は昭和になってから尼僧が守り、現庵守の河合宗重さんで3代目になる。2代目の後しばらく庵守不在でお堂は荒れていたそうだが、河合さんは一人で再興に力を尽くし、17年になる。集い来る人たちは観音様を拝むだけでなく、河合さんの人柄にひかれているようだ。
「いつ、何が起こるかわからないこの世、今日、今を大切にして生きたいものです」。入口に書かれた優しい文字が心に刻まれた。
観音堂の横の道から瑞鳳殿の裏に抜けると、朗々たる声が聞こえてきた。経ヶ峯広場に設けられたステージでは、第7回になる能楽の舞台が繰り広げられていた。謡や小鼓、笛の音色が森閑とした空気の中に響く。思いがけない出合いの一日になった。(s)
今回の散歩道マップ
[第23回] 2015年11月29日号

東北大正門。
北門とともに歴史的なエピソードは
尽きない
知の歴史 見つめた二つの門
東一番丁の通りを歩いて、東北大学史料館へ向かう。弾正横丁の道標を過ぎると東北大学北門で、メタセコイアの並木が見えてきた。この門からは今日も車や人の出入りが絶えない。
北門を背にして立派なクロマツが並ぶ道を南へ進む。このクロマツは、1940(昭和15)年、第7代東北帝国大学総長に就任した熊谷岱蔵博士が、就任後すぐに亘理郡浜吉田のあたりから移植したものだという。
東北大学事務局の黄褐色の煉瓦張り建物の横を曲がると左奥に史料館が、さらにその先に東北大学正門が見える。レトロな雰囲気を持つこの建物は、1924(大正13)年に東北帝国大学図書館として建てられたものだ。昭和の初めに仙台市錦町に建てられた斎藤報恩会博物館を手掛けたことでも知られる建築家小倉強が建設に携わっており、小倉はその著書『一人静』で作品の一つとして紹介している。
完成したばかりの頃、シンメトリー(左右対称)の建物の東側に書庫、西側に法文学部1号館が連結していたという。その後、図書館が川内に移転してからは空き家となっていたが、30年ほど前に東北大学記念史料室新館として改修された。
4年前の東日本大震災で大きな被害を受けたが、3か月後の6月には、比較的被害が少なかった1階東側で一般公開業務を再開している。その後さまざまな改修・修復を行い、ようやく今年4月すべての工事が終了した。これまでの階段部分にはエレベータが新設され、見学者に優しい作りとなっている。 「震災の年も変わらず企画展を実施しました。今は、戦後70年を題材にした企画展を開催中です」と、史料館のスタッフの方に案内していただいた。展示は来年1月までを予定しているという。
◆ ◆
史料館を後にし、正門へ向かうと、リュックを背負った高校生が通り抜けるのが見えた。この道は、1923(大正12)年法文学部が設置されたのに伴って整備され、正門はその2年後に設置されている。鉄製の門扉は戦時中、金属類回収令により供出し一時は木製だったが、現在は当初のものとは違うデザインの鉄の扉が取り付けられている。終戦から2年目の1947(昭和22)年8月、天皇陛下行幸の際には、片平丁通から正門を入った陛下の車が、歓迎する人々でぎっしり埋め尽くされた道をゆっくりと北門へ進んだ。車は金属材料研究所本多記念館へと向かい、玄関では佐武安太郎総長と本多光太郎博士たちが出迎えた。
北門と正門。どちらから史料館に向かってもエピソードは尽きない。
門をくぐって歴史の一ページをめくってみませんか。(Y)
今回の散歩道マップ
[第22回] 2015年10月25日号

2013年時のきんけん一般公開の様子
(写真上)と
きんけん一般公開2015ポスター
(写真下)
研究の最先端を子どもらに
9月の片平キャンパスは、大学の授業がお休みでまた学会、会議のシーズンということもあり静かで落ち着いた雰囲気だ。お昼時のさくらキッチンをのぞいてみたが、いつものような賑やかさは見られない。
金属材料研究所(以下、金研)の正面玄関のそばに立っている掲示板に目が留まった。ちょっとお堅い研究所のポスターにしては何やら可愛い探検隊のイラストが描かれている。タイトルは「きんけん宝島 みんなで探検 キッズラボ」。ポスターは『きんけん一般公開』がまもなく開催されることを告げていた。
初秋の静かな片平キャンパスが多くの親子連れで賑わう催し物をご存じだろうか。同大にある研究所が共同で開催する2年に一度のイベント「片平まつり」だ。1998年に初めて開催されてから、最先端の科学に触れられるイベントとして広く親しまれ、今回で9回目を数える。『きんけん一般公開』は金研が行う片平まつりのイベントで、毎回子どもたちの人気を集めている。
開催を重ねるごとに来場者数も増え、前回(2013年)は5千人を数えた。金研でも液体窒素で冷やした超伝導体が空中でクルンと回る「超伝導ジェットコースター」や、屋内のコースを自分で運転する「燃料電池自動車」を待つ長い列ができる。
今年は、これまでで最多の11の研究所が参加し、「感じてみよう、科学のチカラ」をテーマにさまざまなプログラムを準備中だという。 「イベント会場は片平、星陵、そして青葉山の3つ。キャンパス間の移動は片平を起点に星陵と青葉山をむすぶ無料のシャトルバスを使うと便利ですよ」と、片平まつり2015実行委員会事務局から教えていただいた。見学の後は共通パンフレットの裏面に各会場でスタンプをゲット。どう廻ったらスタンプを効率よく集めて記念品がもらえるか、シャトルバスの運行時間と睨めっこするのも楽しそうだ。
◆ ◆
「この機会に、私たちの研究成果が現在や将来にどんな形で身近に利用されるのか、そして未来を担う子供たちに科学の楽しさを知ってもらえたら」と語るのは、金研の佐々木副所長。東北大の研究所の中で最初にできた金研は、来年5月21日に創立百周年を迎える。創立以来脈々と受け継がれてきた創始者本多光太郎博士の本多スピリッツのもと、材料科学の研究で世界の最先端を走り続けている金研の今と未来に触れられるまたとない機会だ。片平まつりは、10月10日(土)、11日(日)の二日間にわたって開催される。各所で運動会などが目白押しの秋の休日、アタマとカラダの両方で科学を身近に感じてみませんか。(Y)
[第21回] 2015年9月27日号


鉄鋼研究所(写真上)の跡に建てられた
金属材料研究所1号館(写真下)
金研前史 産声はか細かった
このコラムが企画された理由は、コラムが始まったときに一度紹介されている。金属材料研究所(金研)が来年百周年を迎えるにあたって、片平地区をテーマにして気楽なお話しを紹介しようという趣旨だった。今回は金研がたどった100年の歩みを少しだけ紹介したい。
金研が産声を上げたのは1916(大正5)年4月1日のことだ。しかし、この時は国から認知も受けていなかったし、名前も違っていた。鉄鋼会社を傘下に持つ住友家からの寄付によって、臨時理化学研究所第二部という名で、東北帝大理科大学の中に設立された。研究場所という揺りかごもなかった。あったのは、いつ途絶えるかわからない研究費とわずかな人件費だけだったという。
実はその前年1915年8月1日に第一部が生まれていて、この稿が掲載される8月がちょうど100年目になる。第一部は大豆からセルロイドを作る研究を行っていて化学の分野を担当していた。それに対して第二部は鉄鋼の研究を目的として物理分野を目指した。その後、一部と二部は分離して二部が金研へと引き継がれた。そのようなわけで金研は1916年を誕生の年としている。
臨時理化学研究所第二部を受け持ったのは、理科大学教授の本多光太郎博士だ。彼はドイツ留学で身に着けた物理的な実験方法を、第1次世界大戦の影響で手に入れ難くなっていた鉄と鋼の研究に応用して、良質な鉄鋼材料の開発を精力的に進めた。研究所の発足間もないころ、鉄とコバルトなど数種類の材料を一定の割合で混ぜると、きわめて強い磁石が得られることを発見した。当時として世界最高の性能を持ったこの材料は、資金を提供した住友家の当主(吉左衛門氏)に敬意を表してKS磁石鋼と呼ばれた。
本多たちは、研究所開設早々にしてこのような大きな成果を上げたことに力を得て、さらに優れた鉄鋼材料の開発を専門に行う研究所の建設を要望した。その結果、1919(大正8)年5月22日に正式な研究所として「鉄鋼研究所」が国によって認められた。しかしこの時も、現在の金研の場所に建てられた赤レンガ3階建て建物の資金は、住友家からの寄付に頼らざるを得なかった。
その後、鉄鋼研究所における研究は順調に進み、多くの成果を得て3年後の1922年に、鉄と鋼ばかりでなく金属材料一般への研究の拡張を目指して「金属材料研究所」へと改称した。
鉄鋼研究所以来の建物は惜しくも1986(昭和61)年に取り壊され、同じ場所に7階建ての新しい研究棟が建設された。その研究棟の玄関の奥に、かつての建物の一部が保存されている。「片平の散歩道」のロゴマークはこの鉄鋼研究所の建物をモチーフとしている。(N)
[第20回] 2015年8月30日号

晩翠草堂。周囲はすっかり変わってしまったが、ここだけは晩翠晩年の趣のままだ
青葉通 昭和の名残 晩翠草堂
うっそうと茂った青葉通りのケヤキ並木沿いの一角に、時の流れが止まったような空間がある。そこは、詩人、英文学者として知られる土井晩翠が晩年を過ごした旧居「晩翠草堂」。昭和の面影残る玄関の呼び鈴を押した。
先客が2人いた。出張で東京から来たという中年男性。「10年前からたびたび仙台に来ていますが、いつも気になりながら慌ただしく門の前を通り過ぎるだけ。ようやく念願かないました」と、感慨深げに話してくれた。一緒に管理人さんの説明を聞いた。
晩翠は1871年、仙台市北鍛冶町(現青葉区木町通)で生まれ、仙台第二高等中学校から東京帝国大英文科に進む。1900年に帰郷、母校の教師として教壇に立つ。海外留学後は詩人としての活動に加え、翻訳にも情熱を注ぐ。
土井家の家業は質屋で、現在地にあった旅館を買い取って店舗と居を構えた。当時の家は和洋折衷の3階建だったが、仙台空襲で住居と蔵書3万冊を失った。残る家は、旧制二高の教え子らが募金で資金を集めて建築、贈呈した。
「晩翠は80歳で亡くなるまでここで暮らしました。ベッドも当時のままです」。管理人さんが指差す方を見ると、畳の上にぽつんとベッドが置いてある。“晩翠先生”が今もそこに寝ているような不思議な空気が漂っていた。子どもと妻に先立たれた晩翠は、一緒に暮らしていた妹に看取られたそうだが、晩年は寂しい日々だったようだ。
◆ ◆
広縁に立つ。通りのケヤキが庭に影を落とし、その隙間から見えるマンションの白壁が、ケヤキの緑を浮き立たせている。最近まで目の前には東急ホテル、その前は朴沢女子高等学校(現明成高等学校)の校舎があった。周囲が様変わりするなか、ここだけは昭和。庭の木々も晩翠が暮らした当時のままという。ひときわ大きな木はヒイラギモクセイ。仙台空襲で焼失した際、この木だけが生き残った。9月下旬から10月にかけて白い小さな花が咲くと、庭はほのかな優しい香りに包まれる。この春、ヒイラギモクセイのそばに、晩翠をモデルにしたブロンズ像が置かれた。東京在住の彫刻家吉岡ひろさんが制作し、仙台市に寄贈した。吉岡さんは晩翠の妹の孫の妻。義理の祖母から聞いた人物像を基に制作したという。
秋田から来た数人の小学生が、像の前で記念写真を撮っていた。彼らにとっては「よく分からないけど、偉い人」らしい。荒城の月も聴いたことがないと首をかしげた。 帰り際、門前で写真を撮った。奥に見える仙台ユネスコ会館の老朽化が進み、解体されるらしい。改めて月日の流れを実感させられた。(S)
今回の散歩道マップ
[第19回] 2015年7月26日号

伊達騒動の歴史に思いは及ぶ
瀬に淵に岸辺の営み息づく
間もなくアユ釣りが解禁になる。広瀬川は都会の街中でアユが釣れる川として全国的に有名だが、瀬音に混じりカジカガエルの合唱が聞こえる散策コースも貴重な存在。恵まれた環境にいる幸せを感じながら、瀬と淵(ふち)の織りなす河畔を歩いた。
川の流れが速く浅い場所を「瀬」、その前後で流れが緩やかで深いところを「淵」と呼ぶ。大正元年に発行された仙台市の地図を見ると、広瀬川の瀬や淵に固有の名前が記されている。片平地区には源兵衛淵、唐戸淵、矢込瀬の文字が見られる。その名の言われをたどると、近隣の歴史が見えて興味深い。
矢込瀬は米ケ袋鹿子清水通の南端と接する遊歩道沿いにある。少し上流、現在、県工業高校が立つ場所には、幕末まで遠矢の鍛錬場があった。弓組足軽から選ばれた家臣は宵の口から朝方まで夜通し、一人で数千本の矢を射ったという。川べりに道場が置かれたのは、的を外した「それ矢」の危険を防ぐためだそうで、川に落ちたそれ矢は、下流の浅瀬に梁(やな)をかけて拾い集められた。その浅瀬がいつしか矢込瀬と呼ばれるようになったと伝えられる。
◆ ◆
矢込瀬を見下ろすスポーツ公園では、ゲートボールを楽しむ人たちや元気に走り回る子どもたちがいて、ほのぼのとした時間が流れている。脇の階段を上ると小さなお堂があり、体を縄でぐるぐる巻かれたお地蔵さんが安置されている。初めて見た時は異様な姿に一瞬足が止まった。縛った縄は願掛けのためのものだそうで、縛り地蔵は、人間の万苦を除くと信じられている。由来を知り、穏やかな顔を拝んでからは、毎年7月23日と24日の縁日に開かれる例祭が楽しみになった。
案内板には「伊達騒動のさなか捕らえられ、米ケ袋の刑場で処刑された伊達家の家臣、伊東七十郎重孝の供養のために建てられた」と記されている。
他説もある。「キリシタン弾圧で広瀬川の水牢(みずろう)で殉死した神父の首を、信者たちが矢込瀬ですくい上げ、地蔵を建てて供養した」とも伝えられる。きちんとした書き付けが残っているわけではない。歴史と結び付け、想像をめぐらすのもロマンがある。実は、現在の縛り地蔵尊は2代目。初代は仙台空襲で焼け崩れ、有志により1959年に再建された。
例祭の初日、23日には午前10時から供養が行われるが、その前に、体に巻きついていた古い縄が1年ぶりに外される。訪れた人は願を掛けながら新しい縄を巻くことができる。狭い空間の素朴な例祭だが、集う町内の人たちを見ていると、地域の地蔵尊を守る思いが伝わってくる。(s)
今回の散歩道マップ
[第18回] 2015年6月28日号

旧生物学教室築山のイロハモミジ
伊達家ゆかりの緑したたる
仙台は杜の都と呼ばれる。その仙台が緑に輝くときがある。ケヤキやイチョウなどの街路樹が新緑から夏の深い緑に変わるまでの約ひと月間である。なかでも片平丁は公的機関が多く、その敷地は緑にあふれている。
その中の一つ東北大学片平キャンパスには3つのグリーンスポットがある。東北大学本部前の広場、南に下って南六軒丁の電気通信研究所の一画、そして北の放送大学を囲む一画である。とくにお気に入りは北のスポットだ。かつて東北大学生物学教室の実験園があった場所で、仕事で疲れた心を休めるには格好の場所である。
1923(大正12)年に生物学教室がこの場所に建設されてから、片平丁通と片平丁小学校に面した道路沿いや、教室の中庭にあった実験園の周辺に貴重な植物が植えられて整備されていった。今では当時植えられた樹木が樹齢100年を超える古木となって、心地よい空間を作りだしている。
◆ ◆
1980年に出版の「東北大学理学部生物学教室50年史」には、これらの古木について興味深い話が載っている。明治の終わりころ、後に伊達家第15代当主となった伊達邦宗氏が宮城師範学校の博物学教師であった坂庭清一郎氏と相談して、市内榴岡(つつじがおか)の「政岡の墓」前に記念植物園を造ることを計画、各所から植物を集めていた。しかし、大正12年に邦宗氏が亡くなったためにその計画は中止。集められた樹木は市内の小学校とできたばかりの東北大学生物学教室に移されたという。仙台市保存樹木に指定されている片平丁小学校に面した道路沿いのユリノキ(ハクテンボク)と片平丁通側のスズカケノキ、その隣にあるアベマキ、角の築山に植えられたイロハモミジの大木たち、放送大学の中庭ではシイノキ、アキニレなどがその時のものらしい。他にも数本の桜の木があるが、これらも伊達家から譲られたものかもしれない。
実験園が整備される過程で別のルートで持ち込まれたものもある。由来ははっきりしないが、シナノキ、イタヤカエデ、イヌシデ、ミズキなどの古木が放送大学と金属材料研究所の間の一隅を占めている。
かつて実験園のそばにテニスコートがあった。その北と東のフェンスに沿って、いろいろな種類のサトザクラが植えられていた。この桜は、ある学生が桜の染色体数の研究に使用したものをここに植えたといわれる。そのうちの数本が残っている。
◆ ◆
ここに植えられている樹木の多くが落葉樹である。いまの季節になると一斉に若葉がもえあがる。梅雨に入る前の晴れた太陽のもとで杜が輝くときである。(N)
今回の散歩道マップ
[第17回] 2015年5月31日号

小川記念園のツツジと記念碑
(2014年撮影)
ニッポニウムの見果てぬ夢
桜前線があっという間に通り過ぎると、日に日に暖かくなってたくさんの花が一斉に咲き始める。暖かさに誘われて散歩に出た。東北大学北門の前から弾正横丁を通って片平丁通に向かう。交差点の角に小さな公園がある。小川記念園と呼ばれ、小さいけれどツツジの名所だ。
東北大学の一角の落ち着いた空気の中で、ここは華やかな雰囲気につつまれる。一辺が10メートルほどの扇型をした公園で、交差点に面してツツジが植えられている。桜が終わったこの時期には真っ赤な花が燃え上がるように咲く。ツツジの植え込みの内側に白い小さな花をつけたドウダンツツジが数株植えられている。扇の円弧の部分には石壁が張られ、その中央に銅板がはめ込まれた記念碑が建っている。この公園は1932(昭和7)年に、小川正孝東北帝国大学第4代総長の功績を称えるために、眞島利行らによって造られたという。
石のベンチに腰をおろして、午後の陽を浴びながら彼のことを思った。
◆ ◆
小川正孝は明治維新の3年前1865(元治2)年に愛媛松山藩の江戸詰藩士の子として生まれ、維新によって松山に戻り幼少期を過ごした。松山中学校から大学予備門(後の旧制第一高等学校)を経て、1886(明治19)年に、できたばかりの帝国大学理科大学化学科に最初の学生として入学した。卒業時の化学科の学生は二人で、もう一人は後に昆布に含まれるうま味成分を見つける池田菊苗だった。しばらく苦労したが、1899年に第一高等学校に教授の職を得て教育と研究に努力を傾けた。そのかいあって、1904年39歳の時イギリスへの留学を命じられロンドン大学で2年半の研究生活を送った。ここでの新元素「ニッポニウム」の発見が彼の後半生を決定付けたようだ。
帰国後、東京高等師範学校の教授を経て、1911年に新設された東北帝国大学理科大学教授に任命された。初代理科大学長を務めた後、1919年に東北帝国大学総長に選ばれた。学長や総長の業務をこなす傍ら、「ニッポニウム」の確証を得るために研究をつづけた。しかし、最後までその確証を得ることはできなかった。彼が見つけた元素が確かに新元素であったことは、彼の死後70年余りを経て、東北大学の吉原賢二教授によって遺品に残されていたX線写真から明らかにされた。それは小川の発見から20年後にドイツの研究者によってレニウムと名付けられていた物質であった。ただ、小川は原子量の推定に間違いがあったといわれる。
◆ ◆
片平丁通をはさんで向かいにある片平市民センターから、学校を終えた子供たちの遊ぶ元気な声が聞こえてきた。(N)今回の散歩道マップ
[第16回] 2015年4月26日号

仙台高等裁判所のエドヒガンザクラ
(2014年撮影)
門柱に刻む 旧制二高の青春
草木が一斉に動き出す季節は、散策が楽しい。片平丁通で見つけた春一番は、石積みの間からそっと顔を出していたオオイヌノフグリ。空色の愛らしい姿で小さな春を告げていた。
江戸時代、近隣には伊達藩の重臣たちの広大な屋敷が並んでいた。東北大片平キャンパス側に続く石積みは、その名残だ。仙台高等裁判所の敷地は、伊達騒動(寛文事件)の中心人物、原田甲斐の屋敷だった。入口に枝を広げるエドヒガンザクラのつぼみも丸みを帯びてきた。甲斐は、この桜を見たのだろうか。
昭和50年、市の保存樹木に指定された当時の樹齢は250年と記されている。ということは1725年頃に植栽されたことになる。伊達騒動が勃発したのは1671(寛文11)年、その後に原田家は断絶している。どうやら、屋敷が没収された後に移り住んだ主人が植えたものらしい。
枝分かれして横に伸びた幹の間にこぼれ種が落ち、楕円(だえん)形の大きな葉が勢いよく伸びている。ごつごつした幹の肌合いが、風雪に耐えてきた年月を物語っていた。
◆ ◆
片平丁通を南下すると左手に東北大片平キャンパスの正門が見えてくる。その少し先にれんが造りの重厚な4基の門柱が並ぶ。この門柱を覆う桜も見応えがある。この一帯が旧制二高発祥の地。現在は「第二高等学校片平記念苑」として整備されている。旧制二高は1887(明治20)年に開学。荒町の仮校舎で授業を始めたが、2年後に片平丁(現東北大片平キャンパス)に木造の校舎を建設して移転した。配置図を見ると、校舎の他に雨天体操場や寄宿舎、植物園などもあったようだ。今も残る4基の門柱は創立以来の正門だが、数奇な運命をたどった。
旧制二高は戦後の学制改革で東北大に統合されるまでの63年間に、片平丁から北六番丁、三神峯へと移転したが、正門も校舎を移転する度に引っ越しを繰り返す。旧制二高の終焉(えん)で行き場がなくなったが、一時市立博物館構内に保存され、創設当時とほぼ同じ現在地に戻った。
記念苑は旧制二高の同窓生でつくる「尚志同窓会」が1996年に整備した。約250平方㍍の苑内には校歌を刻んだ石碑や、蜂の徽章(きしょう)をあしらった大きなモニュメントが立つ。同会は会員の高齢を理由に、既に解散している。 風格漂う正門と一体になった桜は絵になる。つぼみの膨らみを調べていると、近くに住む女性に声を掛けられた。
「この桜が散ると、裏にある枝垂れ桜が咲き始めるの。片平に居ながら、1カ月近くお花見が楽しめるのよ」(S)
今回の散歩道マップ
[第15回] 2015年3月29日号

生まれ変わった「北門食堂」
北門にモダンな萩と桜咲く
窓からの日差しが明るく感じられ散歩に出たが、ほおに当たる風はまだ厳しい。暖を求め、東北大片平キャンパス北門前にある、ガラス張りの建物に立ち寄る。
正式名称は「東北大学生活協同組合片平食堂」。いわゆる「学食」だが、3年半前にカフェテリア形式の「さくらキッチン」として、近代的な空間に生まれ変わった。昼時を少し過ぎていたが、のんびり食事をする学生で席は埋まっていたので、2階の「レストラン萩」に移る。
途中の踊り場には2席。個室のような雰囲気で女性がくつろいでいた。
吹き抜けの天井は木材を立体的に組み合わせた斬新なデザイン。建築学科の先生の設計だそうだ。目の前に広がる全面ガラスの向こうに、サクラの木が自在に枝を伸ばす。花も葉もない今の時期は枝振りの面白さが際立ち、創作されたオブジェのように建物と一体になっている。近隣で一番早く咲くサクラだそうで、花の時期はさぞ見事だろうと想像をかき立てられた。
◆ ◆
旧食堂は「北門食堂」と呼ばれていた。建て替えられるころには相当老朽化していたが、学生時代、何度となく利用していた人たちは「モルタル仕上げの、切り妻の平屋が懐かしい」と話す。東北大50年史には、建築時のいきさつが記されている。
時代は、この辺りが伊勢屋横丁と呼ばれていた1939(昭和14)年にさかのぼる。東北帝国大学の創立25周年記念事業として旧浅野真夫邸を買い受け、改装して記念館を設立。そこに集会所、食堂、娯楽室などを設け、学生や教職員の厚生施設としたのがスタートだったようだ。しかし記念館は戦災で焼失。1953(昭和28)年に、有志の寄付により平屋が建築され、一部が北門食堂に、その奧には日本間が設けられ、新入生歓迎や卒業送別コンパなどに利用されてきたという。
◆ ◆
注文した食事を待つ間、レストラン萩のメニューを広げてみた。平日の午後5時から10時はバータイムになり、牛モツの仙台味噌(みそ)煮込みなどの一品料理も加わり、アルコールも提供される。手軽な「hagi晩酌セット(生ビール、お刺身、おつまみ玉手箱)」は人気があり、教職員に交じり、一般客も気楽にグラス片手に舌鼓を打つという。大学オリジナルの地ビール「東北大学ペールエール、ヴァイツェン」や日本酒「萩丸」は、学会で訪れた人や卒業生に喜ばれている。「夜桜を眺めながらの食事もいいな」と思っていると、注文した萩御膳が運ばれてきた。おいしそうだ。「いただきます!」(S)
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[第14回] 2015年2月22日号

斎藤報恩会博物館入り口
学問を支えた素封家の軌跡
片平丁通を南町通に出て、片平消防出張所横の角を西に曲がる。道なりに歩くと、すぐに北に向きを変え青葉通と交差する。交差点一帯では地下鉄西公園駅の工事が進んでいる。間もなく工事用の外囲いも取り払われ、風景は一変するだろう。右手は青葉通で、途中から大町通と分かれる。交差点から西に下ると仙台城への入り口にあたる大橋に至り、その先には青葉山が一望できる。冬枯れの地味な景色だが、すがすがしい。 交差点から北の市民会館方面に向けては西公園通りである。100メートルほど行くと、広瀬通との交差点手前のビルの前に『斎藤報恩会博物館』の看板が立っている。エレベーターで2階に上がると小さな博物館がある。パンフレットにはポケットミュージアムと書かれている。ドアを押して入ると、最初に目に入るのは部屋の中央におかれた恐竜アロサウルスの骨格標本だ。
受付の女性に尋ねると「錦町公園(本町二丁目)の隣にあった自然史博物館が5年ほど前に移って来ました」とのこと。
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斎藤報恩会は、桃生郡前谷地村(現石巻市前谷地)の資産家であった斎藤善右衛門氏の私財をもとに、日本の学術研究を支援するために1923(大正12)年に設立された。当時の日本には、学術研究に助成を行うような財団はなかったために、国の許可を得ることが難しく大変な苦労をしたという。優れた研究に多額の研究費が助成された。テレビ受信用として広く使われている八木・宇田アンテナの発明や東北大電気通信研究所設立のきっかけになった通信法の研究、わが国初の絶対零度近くの研究につながる東北大金属材料研究所での低温研究、貴重なチベット仏典の購入と調査、多くの個人文庫の収集調査などの助成件数は1600件を超える。その中から数多くの文化勲章、日本学士院賞の受賞者や文化功労者を輩出している。
博物館は1933(昭和8)年に錦町の旧斎藤報恩会館内に開館した。独自に研究部門を持ち、開館時には貝類や魚類の化石、鉱物標本、鳥類のはく製など10万点余りの資料を収蔵した自然史博物館だった。2009(平成21)年の移転によりかつての収蔵品の多くは国立科学博物館に寄贈されたという。現在では、恐竜の骨格標本、はく製、宮城県産出の鉱物や化石、縄文式土器、八木・宇田アンテナの模型などが展示されている。
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気軽に楽しめる博物館だ。日曜、月曜、祝日を除く午前10時から午後4時まで開かれている。散歩の途中でちょっと立ち寄る場所としていかがだろうか。(N)今回の散歩道マップ
[第13回] 2015年1月25日号

うま年の守り本尊、二十三夜堂
二十三夜さん 午年を忙しく
東北大片平キャンパスの東に位置する北目町。かつて奥州街道沿いに栄えた商店街はビル街となり、広くなった通り(五橋通)を、平日は多くの車が行き交う。会社が休日となる日はひっそりして人通りも少ないが、地域の守り本尊、「二十三夜堂」の縁日と重なった祝日の11月23日は、参拝の人が入れ代わり立ち代わり境内を訪れていた。
「二十三夜さん」の愛称で親しまれる二十三夜堂の正式名称は、天台宗北目山「賢聖院」。23日の夜に人々がお堂に集まり、勤行、飯食をして月の出を待つ二十三夜講を行ったことから二十三夜堂と呼ばれるようになり、毎月23日に本尊がご開帳される。言い伝えによると平安中期の創建で、伊達政宗が仙台城下を開き、北目城の城下(現太白区郡山)に住んでいた商人や職人をこの地域に移住させた際、一緒に移建されたそうだ。
本堂にろうそくが灯り、奥に勢至菩薩の姿を拝むことができた。一人手を合わせる女性はうま年の生まれで、太白区長町から来たという。「いつも一つ手前の駅で地下鉄を降り、お参りしてから用事を済ませています」と話してくれた。勢至菩薩は午年生まれの守護尊。この菩薩を本尊としているのは関東以北で二十三夜堂だけとあって、うま年の今年は多くの参拝者があった。
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毎年7月22、23の両日は祭典として縁日が開かれる。みこしが町内を練り歩き、露店が立ち、演芸や抽選会で盛り上がる。小西染物舗3代目の小西崇夫さんは親の代から寺院の総代を務める。「戦前は境内がもっと広く、祭りの日には町内にも舞台が設置されてにぎわいました。今の五橋通の中ほどに大きな仁王門があって、左右に並んでいた仁王様の姿を覚えています」。小西さんは昭和5年うま年生まれだけに二十三夜さんへの思いも深く、町内の人たちと一緒にご本尊を守っている。「賢聖院は江戸時代に2度火事に遭いましたが、仙台藩の保護があり立派なお寺が再建されたそうです。戦災で焼けてからは、2間四方のお堂でご本尊様をお祭りしています」。住職の四竈亮澄さんは戦後生まれで、仁王門の存在も話に聞くだけという。「小さな本堂ですが、参拝者との距離が近いので、祈祷の際も『一体感があっていい』と言ってくださる方もいます」
元旦は午前0時から午後5時まで、2日と3日は午前9時から午後5時までご開帳され、新年の祈祷が行われる。14日どんと祭の火入れ式は午後6時。四方を金網で囲って正月飾りを焼納する、町中ならではの風景が見られる。
「新しい年は健やかな1年になりますように」。手を合わせて境内を後にした。 (s)
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[第12回] 2014年12月28日号

ラーハウザー記念
東北学院礼拝堂
薫り立つ大正・昭和のモダン
落ち葉舞う片平丁通りを南下すると、南六軒丁通りにつながる。藩制時代は通りの両側に身分の高い6軒の侍屋敷があった大名小路で、城下北部の北六軒丁に対して「南」と名付けられた。一帯は1970年の住居表示の改正で土樋1丁目になっているが、一角に「南六軒丁」の文字が残った古い表札を見つけ、郷愁を誘われた。
ほどなく、東北学院大土樋キャンパスの正門にたどり着く。正面に見えるのが大正末期に建てられた大学本館で、右手には昭和初期に完成したラーハウザー記念礼拝堂が、風格あるたたずまいを見せている。どちらもアメリカ人J・H・モルガン設計のカレッジ・ゴシック様式で、外壁には秋保で産する自然石(秋保石)が使われている。堂々たる造りに漂う温かな雰囲気は、秋保石の特徴である軟らかな表情がもたらしているようだ。
礼拝堂の冠になっているラーハウザーの名称は、建設募金活動に賛同した女性資産家の名前に由来する。
教育機関であり、しかもキリスト教布教のための東北の拠点となるような礼拝堂の建設には多額な費用が必要だった。2代目の学院の院長だったデビッド・ボウマン・シュネーダーは米国で募金活動を展開。その活動に応えたのがエラ・A・ラーハウザー女史だった。現在の日本円に換算すると、10億円近い高額な寄付が寄せられたという。
礼拝堂の中に入ると、正面のステンドグラスの美しさに心を奪われた。イエスキリスト昇天の場面が、鮮やかな色彩で描かれている。講壇の右側にあるパイプオルガンは、建築当時、北日本で初めて導入された米国製もので、現在は外観だけをとどめている。授業期間中、毎日午前10時25分から行われる礼拝では、2代目のドイツ製のパイプオルガンが荘厳な音色を奏でている。
毎年12月には公開クリスマス礼拝が行われる。65回目となる今年は19日(金)午後6時からで、キャンドルサービスや日本基督教団名取教会の荒井偉作牧師よる説教、東北学院合唱団による「メサイヤ」の合唱が予定されている。歴史を受け継ぐ厳かな空気の中で、同窓生や近隣の人たちとともに味わう一足早いクリスマスは、年の瀬の慌ただしさを忘れさせてくれる。
◆ ◆
学院大の正門前、南六軒丁通りを挟んだ北側では、新校舎の建設が始まっている。教室や研究室、事務室のほか、地域住民にも開放される食堂(カフェ)、多目的ホールが計画されている。南六軒丁通りは、両側の歩道をそれぞれ段階的に拡幅するという。時を超えて新旧が融合する街並みが、新たな歴史を作る。(s)今回の散歩道マップ
[第11回] 2014年11月30日号

築山も大イチョウも秋深く
漂っていたキンモクセイの甘い香りがいつの間にか消えて、山々から紅葉の便りが届き始めた。仙台市内の「紅葉日」は平年で11月18日だが、日当たりの良い高台では色づき始めた樹木もある。
紅葉日とは、気象台構内のイロハカエデの緑の葉がほぼ消えた日だそうで、過去20年の統計では、随分遅くなっているらしい。温暖化のせいだろうか。昨年は平年よりもさらに9日も遅れての紅葉日となったが、今年の紅葉は少し駆け足になりそうだ。
近隣を散策しながら、変化していく色合いの妙を味わえるのは、この季節ならではの楽しみ。サクラの隠れた名所と言われる東北大片平キャンパスかいわいは、そのまま紅葉の名所にもなりそうだが、実は春先から心待ちにしている2カ所のスポットがある。
一つは、東北大学金属材料研究所の北側の通りを西に向かって進み、片平丁通とぶつかる交差点の南の一角だ。木立の中に赤いレンガの建物が立つ。1969年までは東北大学理学部の生物学科だったところで、現在は放送大学宮城学習センターの施設として利用されている。建物の周りには生物学科時代の名残の古木が茂り、ここが街中であることを忘れてしまう。
交差点に面して、通りからも見える築山がある。史料によると、生物学教室の初期の技術職員で、実験園の園丁頭を務めた柴田虎之助氏の作品だという。大正末期に造られたもので、今は木々がうっそうとしている。片平散歩を始めてから「なぜここに築山が」という思いで眺めていたが、柴田氏はかつて庭師だったと知って、築山の工夫もうなずけた。歩道に枝を伸ばしたイロハモミジの芽吹きのころから気になっていたので、鮮やかに変身した姿が通りに彩りを添える日が待ち遠しい。
もう一つは、片平キャンパスの正門を入った右手。それは大きなイチョウの木がそびえる。いつ誰が植えたのか不明だが、仙台市の保存樹に指定され、樹齢は約240年。藩制時代から片平の移り変わりを見てきたと思われる。雄株なのでギンナンはならないが、以前は近くに雌株があり、ギンナン拾いの穴場だったようだ。
「青空に映える黄金色の姿は、言葉では言い尽くせないほど見事ですよ」と、朝な夕なに眺めている人のお勧めがあった。少し気は早いが、ひそかに期待しているのは、風に散る瞬間だ。ハラハラ音を立てて舞う幻想的な風景を想像しただけでわくわくする。
落葉樹の葉の約80%が落ちた最初の日を「落葉日」と呼ぶ。仙台の平年は12月3日。降り積もった落ち葉のじゅうたんができたとき、本格的な冬が到来する。(s)
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[第10回] 2014年10月26日号

仙台医専跡に立つ魯迅胸像
110年の昔 若き魯迅遊学す
東北大片平キャンパスに、「近代中国文学の父」といわれる文豪、魯迅の胸像が立つ。ひげをはやし、いかつい感じはするが、目が優しい。
胸像と並んで写真に納まる女性に出会った。中国人らしい。「日本語を話せますか」と声を掛ける。「少し」と笑顔で応えてくれたのは、中国西安出身の陶天若さん。シアトル大学(アメリカ)の1年生で、夏休みを利用して母親と旅行中だという。「魯迅が学んだ場所をぜひ見たかったです」と、うれしそう。魯迅没後80年近くになるが、今でも中国の人に愛されている様子が伝わってきた。
魯迅(本名周樹人)は1904年秋から仙台医学専門学校(東北大医学部の前身)で学ぶが、故国の危機に心を痛めて医学を断念。文学による革命を志して、1年半ほどで帰国する。胸像が立つのは医学専門学校跡地で、近くに魯迅が学んだ階段教室が保存されている。
◆ ◆
魯迅が最初に下宿した家が片平丁通の道端にある。古い木造の2階家で、軒下に「魯迅故居跡」の記念碑が立つ。家は大正末期に改築されているが、魯迅がいたころと大きく変わってはいないらしい。 東北大名誉教授の小林典男さんが66年に東北大理学部に入学したとき、大学の厚生掛に紹介してもらった下宿がこの家だった。横の木戸を入って庭から案内を乞うと、老婦人が説明してくれたという。 「2階に8畳程度の部屋が2間あったと、うっすら記憶しています」。小林さんは、当時を振り返る。部屋はふすまと障子で区切られ、階段下に大家さんが暮らしていた。「1人で落ち着けるような造りにはなっていませんでした。由緒ある下宿とも知らず、お断りして他を探しました。この下宿を、仙台市できちんと維持してほしいと切に思います。保存できれば、日中関係にも良いニュースになるのではないでしょうか」魯迅がこの下宿で暮らしたのは来仙して2カ月ほどで、後に鹿の子清水通(土樋1丁目)の下宿に移る。転居を勧めたのは、魯迅が敬愛した医専の藤野厳九郎先生だった。日本語をよく話せなかった魯迅の勉強に支障が出ることを案じ、「教え子たちが多く暮らす下宿で、共に生活するよう計らった」と伝えられる。
今年は魯迅が仙台に留学して110周年に当たる。宮城県日中友好協会は、魯迅の命日の翌日、10月20日午後1時30分に仙台市博物館の庭にある「魯迅之碑」前で献花式を行う。「日中の緊張が高まっている今こそ民間交流を大切にしたい。身近な国際交流として多くの方に参加いただきたい」と、同事務局では話している。(s)
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[第9回] 2014年9月28日号

阿部次郎記念館の内部
青春のバイブル 記憶は今も
日差しが厳しい。片平丁通の南端から広瀬川に続く坂道を下るだけで汗が噴き出た。
坂の途中に「米ケ袋 鹿子清水通」の辻標が立つ。シカにまつわる伝説の清水が町名の由来となったが、現在は通りの名として残るだけ。昔は夏になると清水のほとりに茶店が出て、涼を求める人でにぎわったと伝えられる。坂道は長く、この辺りで喉を潤したい気持ちがよく分かる。
広瀬川に突き当たる手前の横道を曲がってすぐ、白い建物が目に留まった。入り口に「阿部次郎記念館」の看板はあるものの、個人宅のような佇まいなので一瞬ためらったが、すぐに「見学される方はチャイムを押してください」の文字を見つけた。
出迎えてくれたのは、職員の女性。差し出された芳名帳を見ると、すぐ前に訪れた人は東京の住所になっている。「地元の方と県外の方で半々でしょうか。出張のついでに立ち寄られる方もいらっしゃいます」
◆ ◆
阿部次郎は1883(明治16)年8月27日、山形県上郷村(元酒田市)で生まれる。哲学者、美学者、評論家などいくつもの顔を持つが、41歳から63歳までは、東北帝国大学の教授を務めた。一般には「三太郎の日記」の作者としての方がなじみあるだろう。とはいうものの今の時代、どれだけの人が、その本を読んだことがあるのか…。戦後生まれには、旧仮名づかいと漢字が多い文章はとっつきにくいが、少しずつ読み進めると、「旧制高等学校の生徒たちの必読書だった」といわれる理由が納得できるような気がした。
先日、お孫さんの結婚式で仙台を訪れた80歳過ぎのお年寄りが立ち寄った。「三太郎の日記は青春時代のバイブル。記念館の存在を知り、ぜひ来てみたかった」と、熱い思いを話してくれたという。 記念館は、日本文化の特質の究明を目的として設立された「阿部日本文化研究所」が基になっているが、建物が完成したころ、阿部は病に侵され、ここに来ることはあまりなかったという。没後、東北大文学部に寄贈され、99年に現在の形になって一般公開されている。館内には教授時代に使われていた机や「三太郎の日記」の草稿、漱石からの手紙、講義ノート、日記などが残されており、几帳面で温かい人柄がしのばれた。
帰り道、少し足を延ばし、愛宕橋近くにある阿部次郎旧居跡(若林区土樋)を訪ねた。ここには同郷の歌人、齋藤茂吉もよく立ち寄ったという。広瀬川沿いの閑静な住宅地の一角、今は主なき庭に高く伸びたネムノキが、ひっそり花をつけていた。(S)
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[第8回] 2014年8月31日号

杉並木に覆われた参道の石段
石段踏みしめて江戸時代へ
梅雨の晴れ間を縫って、経ケ峯にある瑞鳳殿を訪ねた。レトロ調の観光バス「るーぷる仙台」が止まると、次々に観光客を降ろし、入れ違いにバス停で待っていた大勢の人を乗せて走り去っていった。
深い緑に吸い込まれるように歩を進める観光客の後に続く。坂の途中に設置してある杖を手にした若い女性2人が「修行僧になったみたい」とはしゃぐ。「もう少し先に進むと、杖のありがたさが分かりますよ」と心でつぶやきながら、微笑(ほほえ)ましく眺めた。
経ケ峯には藩祖伊達政宗の霊屋「瑞鳳殿」、西側に2代忠宗、3代綱宗の霊屋「感仙殿」「善応殿」が並ぶ。いずれも戦災により焼失したが、1970年代から80年代にかけて相次いで再建。2000年に入って改修が行われ、創建当時の姿がよみがえった。
高くそびえる杉並木に覆われた参道の石段は戦火を免れた藩制時代からのもの。長い年月が描き出した重厚な雰囲気が味わい深く、見上げる石段の勾配に圧倒される。階段を一段ずつ踏みしめるたびに、現実から江戸時代にタイムスリップしているかのような気分になる。
「テッペンカケタカ…」。ホトトギスの鳴き声で後ろを振り返ったとき、ガクアジサイの濃い青紫が目に入り、階段を引き返した。近付くと、薄暗い細い小道の前に小さな案内板を見つけた。「御子様御廟」とある。若くして亡くなった伊達家の子どもたちや藩主の側室が眠る。しっとり湿った空気と、周囲の音を吸収する独特の静けさが漂う。手を合わせ、早々に去った。
瑞鳳殿を訪れたのは数年ぶり。来るたびに表情が異なって見えるのは、季節の移ろいに合わせて変化する経ケ峯の豊かな自然があるからだ。
土・日を中心に活躍している「瑞鳳殿ガイドの会」の皆さんのユーモアあふれる説明も、訪れる人を引き付ける。
◆ ◆
瑞鳳殿では「経ケ峯の魅力をもっと伝えたい」と、さまざまな催しを企画。七夕の3日間、開館時間を延長して行われるライトアップもその一つだ。石段の両側には、ろうそくを灯(とも)した竹灯篭が1200個並び、本殿や拝殿、涅槃(ねはん)門などが照明のカクテル光線で浮かび上がる。伝統的な「七つ道具」を飾った職員手づくりの七夕も昼間とは違って見える。どこからともなく聞こえる篠笛の音色が郷愁を誘う…。
前回の写真を見せていただいただけでイメージが膨らみ、興味をそそられた。ろうそくがほのかに照らす杉木立の中のコンサートも、通常の観覧料で楽しめるという。
七夕の一夜、街中の喧騒(けんそう)を避け、幽玄なひと時をしっとり味わってみたい。(S)
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[第7回] 2014年7月27日号

明治維新後、地域の守り神に
夏は「大日如来」の祭りから
梅雨空の向こうに広がる夏が待ち遠しい。
「大日如来の祭りが始まると、本格的な夏到来です」と話すのは、柳町会会長の郷古耕一さん(66)。通りを歩行者天国にして繰り広げる「お祭り広場」は広く知られ、仕事帰りに立ち寄る人や家族連れなど大勢の人であふれる。
もの心ついたときから祭りとともに育ってきた郷古さんたち世代が今、先輩の後を受けて歴史を引き継ぐ。「子供会や町内会の団結力が強いのが自慢です。今年も約150人の小学生がみこしの行列に参加してくれます」。祭りに掛ける熱い思いが、大勢の人を巻き込む。
◆ ◆
大日如来を祀る柳町大日堂界隈(かいわい)は、青葉区一番町1丁目に住居表示が変更されるまで、「柳町」の町名だった。藩制時代には御譜代町として専売特権が与えられた由緒ある商人や職人の町で、地域の人の町名に対する思いは根強い。
大日如来は、いまは横丁名にその名を残す教楽院にまつられてあったという。教楽院は明治維新後に廃寺となり、大日堂だけが地域の守り神として残った。
境内には思いのほか人の姿があった。たばこ休憩の男性やお弁当を広げる若者たち…。お堂の前では青年が長々と手を合わせている。大きな荷物を抱えたお年寄りが、門前で深く頭を下げて過ぎて行った。
昼下がりの一時、ちょっとベンチに座っていた間に、入れ代わり人が出入りする様子が見られ、町のシンボルとして親しまれている様子が伝わってきた。
◆ ◆
東北大金属材料研究所(金研)の北側から東に抜ける柳町通には旧町名を記した街路灯が配置され大日堂まで続く。7月19日・20日の祭りが近付くと、街路灯ののぼり旗が揺れて祭りへといざなう。祭りの初日、夏休みを前にした小学生の子どもたちがみこしを担いで境内を出発し、山車が後に続く。町内を練り歩く途中で一休みするのが金研の東、伊勢屋横丁に面した柳町公園だ。祭りに備え、子供会が主催して公園の清掃を行っているという。
今年も通りには50店舗ほどの露店が並び、祭り気分を盛り上げる。日が暮れると、境内に設けられる特設ステージでバンドの演奏、歌謡ショーなどが行われる。 「車社会の今、昔と違って車の通行止めの許可をいただくだけでも大変なこと。それでも伝統を守り、大勢の人に楽しんでいただきたい」
郷古さんの話を聞いていたら、わくわくしてきた。仕舞い込んでいた浴衣に袖を通してみたくなった。(S)
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[第6回] 2014年6月29日号

片平丁の一角から評定河原橋を望む
霊屋橋から経ヶ峰を巡って
緑の中を通り抜けてきた風が心地よい。歩くとちょっと汗ばむこの季節は、足に任せて気ままに歩くのが楽しい。東北大正門前から道なりに下っていくと、広瀬川にかかる霊屋橋に通じる。橋のたもとにはめ込まれた金属板には、粗雑な木の橋が1916(大正5)年に木造の吊り橋となり、昭和に入って現在の鉄筋コンクリートの橋に架け替えられるまでのいきさつが記されている。
「藩祖伊達政宗卿の霊廟の下に通ずるに依りて此の名あり」とあるが、大正元年に発行された地図を見ると、霊屋橋の名は無く「越路橋」となっている。粗雑な木の橋というのは越路橋のことで、すぐに流されてしまったらしい。
霊屋橋を渡った先は、経ケ峯と呼ばれる丘陵地。政宗公の廟(びょう)、瑞鳳殿はいずれ訪ねてみたいが、今回は細い横道の奥に見える鮮やかな赤い鳥居に心引かれた。急な石段を上り詰めると視界が開け、穴蔵神社の小さな社があった。静まり返った境内の下は広瀬川らしい。耳をすますと水音が聞こえる。
案内板には「政宗公が、伊達家の守護神として居城(青葉城)に向かい合わせて崖の洞窟に社殿を鎮座するも、洪水で崖崩れに遭い社殿が流出したので、少し川下の現在地に移した」とある。政宗公の正室、愛姫も深く信仰し、安産祈願したと伝えられる。竹やぶの間を抜けると瑞鳳殿に通じる道とぶつかった。
◆ ◆
評定河原橋に立つ。水が澄んで川底の石の表情までよく見える。カモが水しぶきを立てて水面に降り、再び勢いよく飛び去っていった。後を追うようにカラフルなカヌーが2艇(てい)近付いてきた。橋の上の人影に気付いたのか大きく手を振り、ゆっくり姿を消した。
「評定」の名は、江戸時代初期にあった藩の評定所に由来する。初めて橋が架けられたのは1636(寛永13)年で、2代藩主忠宗公が瑞鳳殿を造営する時だったという。その後、何度となく洪水で流され、現在の橋は平成になって架け替えられた。
持参した古地図を見ると、野球場やテニスコートのある一体は広瀬川が二分して流れて中州を形成。そこに早川農場や早川牧場の文字が見られる。戦後まで牛が草を食む様子が見られたらしい。
評定河原野球場脇の川沿いの小道を散歩する夫婦の後に続くと、突き当りの崖に階段を見つけた。上ると目の前は片平丁小学校。振り返ると、大きくカーブした広瀬川にかかる評定河原橋の全景が望め、青葉山を背景に一幅の絵を見るようだ。思わぬ発見をし、幸せな気分になった。(S)
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[第5回] 2014年5月25日号

片平キャンパスのメタセコイアの並木
樹形の美しさが際立つ並木
容姿端麗、人間に例えればすらりとした美人。そんな印象のあるメタセコイアはスギ科の針葉樹で、和名をアケボノスギと言う。二等辺三角形の樹形は、並木になると美しさが際立つ。東北大片平キャンパスの北門を入るとすぐ左側に多元物質科学研究所があり、建物に沿って十数本のメタセコイアが勢いよく伸びている。
木陰をつくる夏、秋の紅葉、冬の裸樹…。それぞれに趣があるが、浅黄色の芽吹きの春は周囲を柔らかく包み、足元のベンチでくつろぐ人の姿も絵になる。この時期、キャンパスの名物、クロマツの力強い並木との対照も見応えがある。
メタセコイアは300万年前に死滅したと思われた植物だが、1945年に中国の四川省で発見され、「生きた化石」として話題になった。この種子をアメリカに持っていって育てた苗木のうち100本が、50年に日本全国で試験的に植えられた。東北大理学部生物学科教授で同附属植物園初代園長だった故木村有香博士は、教室の50年史に次のように書いている。
「仙台では3本引き受け、そのうち2本を頼まれて、私が生物学教室の実験園に植えました。2本のうち1本は特に樹形が美しく生長も早く、まことに良い品種で、仙台市の保存樹木になっています。第3の株は、はじめ旧宮城師範学校の庭に植えられましたが、移植して今は川内の教養部にあります」 2本のメタセコイアは、金属材料研究所の西側、現在放送大学のスクーリング施設として利用されている赤レンガの建物の南に、今も美しい姿を見せている。
メタセコイアは繁殖しやすく、絶滅の危機に瀕したことが不思議なくらい、挿し木で簡単に増やすことができる。片平キャンパスの並木も、2本の木の枝を挿し木で増やした成果だという。56年、西澤恭助博士の退官記念として植えられた。西澤博士とは元東北大学総長、西澤潤一さんの 父親である。
◆ ◆
米ケ袋の坂を下った広瀬川の遊歩道入り口に立つと、川の中に岩のように点在するセコイア類の化石が見られる。今から約300万年前、大火砕流によってなぎ倒されたメタセコイアやセコイアの根、幹の一部が、河床に化石林として残ったという。ほぼ完全に近い形で残る化石林は全国的にも珍しく、市指定の天然記念物になっている。
片平キャンパスのメタセコイアのルーツが中国にあるとすれば、どこかでつながっているかもしれない。悠久の昔に思いを馳せるのも、広瀬川のゆったりした流れのせいかもしれない。(S)
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[第4回] 2014年4月27日号

さくらキッチン(旧北門食堂)前の桜
=2013年4月撮影
隠れた桜の名所そこかしこ
マンサクの黄色い花が香りを放ち、南から桜便りが届くようになると、ちょっと寄り道して近隣のつぼみの膨らみ具合を観察してみたくなる。片平かいわいは知る人ぞ知る桜の名所。榴岡公園(宮城野区)ほどの豪華さはないが、1本1本の風情が味わい深く豊かな表情を楽しめる。
片平公園の桜が素晴らしいという人もいれば、東北大片平キャンパスの魯迅像の辺りが最高という人もいる。それぞれの思い出と結びついて、お薦め場所は違うようだ。
大学の南門脇に「七軒丁/桜小路」の辻標がひっそり立つ。門の前を東西に走る通りは藩制時代に七軒丁と呼ばれていた。大身、中身の武家屋敷が7軒並んでいたので、この名が付いたという。
かつての桜小路は大学構内に消えてしまって形をとどめてはいないが、現在の南門付近から北門に抜けるメーンの通路がその位置らしい。この小路にあった馬場に桜が植えられ、名前の由来となった。 江戸時代、武士が馬術の訓練をした馬場の堤には桜を数多く植えるのが常で、今でも日本各地に「桜の馬場」の地名や「馬場桜」という名の古木が残っている。
キャンパスに桜が多いのは馬場の名残かもしれないなどと思いを巡らせて散策していると、本部前の芝生に古い案内板「黒松の並木と枝垂桜」が目に留まった。そこには、「慶応初年に仙台に移り住んだ鋳物師、東海林嘉吉が植木を好み、ここに枝垂桜を寄進した」とある。名木の物語をたどると歴史が見えてくる。 この辺りは近隣で最も桜が多く、満開の花の下でお弁当を広げる学生や家族の姿は春ならではののどかな風景だ。
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金研の前の通りを抜け、片平丁から米ケ袋のなだらかな坂道を下り、広瀬川の河原に出る。川岸の小さな小道は県立工業高校の裏手に続き、桜のトンネルとなる。「昔はもっと木が多かったけど、伐採されて寂しくなりましたね」と、近所に住むお年寄りが昔を懐かしむ。「この桜は、対岸の鹿落坂の上にある割烹(かっぽう)東洋館が、客室から眺められるように植えたらしいですよ」と教えてくれた。その真意のほどを問い合わせると「代が替わったので詳細は不明ですが、間違いではないようです」とのこと。かつて鹿落坂付近には料亭や割烹旅館が数件あり、相談して一緒に植えたものらしい。広瀬川の流れを挟んだ桜の粋な演出を一度味わってみたいと思いながら、向山の崖のはるか上を眺めた。
ある日、周りの空気がやわらいでいるのに気付く。桜の木全体が赤みを帯びてくると開花宣言は近い。(S)
今回の散歩道マップ
[第3回] 2014年3月30日号

老樹には雪がよく似合う
歴史を知る「乃木将軍の松」
松には雪がよく似合う。東北大金属材料研究所(金研)の本多記念館前にある姿美しい黒松は、前夜に降った雪を枝に残し朝日に輝いていた。傍らの石碑には「乃木将軍遺愛の松」と刻まれている。本多光太郎博士の自筆とか。
明治期の代表的陸軍軍人、乃木希典とアカデミックな金研との関係に違和感を覚えたが、近隣の歴史をたどってみると謎が解けてきた。
乃木将軍は1895(明治28)年4月、仙台に置かれた第二師団長に任命される。官舎となった家の庭先にあったのがこの黒松だった。将軍が仙台で暮らしたのは7カ月にも満たなかったそうだが、見事な松に、戦地で疲れた心を癒やされたことだろう。
昭和になって東北大が金研を拡張するため周辺の土地を買収。そこに将軍の旧家も含まれており、本多博士の意向もあって、松は現在地に移植された。樹齢200余年、仙台市の保存樹林にもなっている老樹は一時弱って心配されたが、手厚い保護により回復し、今は元気な姿で訪れる人を出迎えている。
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乃木将軍の住まいが残る大正元年に作成された片平地域の地図を見ると、本多記念館の東を南北に走る通りが「伊勢屋横丁」となっている。藩制時代、横丁の北の角辺りに居酒屋のような店があり、その屋号「伊勢屋」が、通りの名になったと伝えられる。伊勢屋横丁の南端を東西に走る金研前の通りは「監獄横丁」。本多記念館の西側から片平丁通に接する区域に宮城県監獄署が置かれたことで、誰ということなしに監獄横丁と呼ぶようになったらしい。伊達弾正にちなんだ「弾正横丁」の名も残るが、今はさしずめ「金研横丁」だろうか。
屋敷町に監獄署が置かれたのは、片平市民センターがある辺りに、仙台藩の牢獄が残っていたことに関係するようだ。監獄署は近代的な立派な建物で、主に国事犯を収容したという。監獄署内では赤れんがの生産を行い、受刑者が作業に携わった。れんがは仙台を代表する明治期の建物に多く使われた。
高い黒板塀で囲まれていた監獄署は明治の後半まで使用されたが、跡地は大正時代半ばに東北大が利用するまで放置された。この地の歴史を見て知っているのは今や乃木将軍の黒松だけかもしれない。 かつての監獄横丁は人影も車も少ない。通りの両側には大学構内のフェンス沿いに植えられた常緑樹の松やヒマラヤスギの大木が枝を広げ、彩りを添えている。冬枯れの景色の中で、ここだけは緑に囲まれた貴重な散歩道。日差しが柔らかな昼過ぎ、犬を連れた人と会釈を交わした。(S)
今回の散歩道マップ
[第2回] 2014年2月23日号

本多博士の胸像がお出迎え
「KINKEN」世界に広く
昼過ぎの片平丁通は人影が少なく、北風が身に染みる。辺りは藩制時代、伊達家重臣の屋敷があった地域で、歩道脇の低い石垣はその名残。積まれた石の隙間に顔を出した小さな芽が、寒さに耐えている様子はいとおしい。石垣の上に高くそびえる古木の間から近代的な研究棟がのぞく。通りから東に延びる一帯が、東北大金属材料研究所(金研)だ。金属をはじめ、半導体、セラミックスなど、私たちの暮らしに役立つ革新的な材料を数多く開発し、「KINKEN」の名で、世界に広く知られている。
元東北帝大学長で初代所長だった本多光太郎博士の尽力で創設された金研は、現在6つある東北大の附属研究所の中で最も歴史が古く、2016年に創立100周年を迎える。
東北大の歴史の編集に携わった名誉教授の小林典男さん(66)が大学院生として金研に通い始めたのは約40年前。学生運動が激しかった時代で、伝統と権威の強かった金研の体質に、多少の反発を感じていたこともあったという。「歴史をたどり、改めて伝統の大切さと重さを認識しました。今思えば、金研は自分には過ぎた場所でした」
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金研の表玄関に当たるのが本多記念館だ。教授在職25年記念事業の一環として、1941年に建設された。老朽化が進んだため94年に改修されたが、建設当時の状態を生かして保存されている。玄関から続く階段や壁は重々しい大理石。ぴかぴかに磨かれたフロアに立つだけで、厳かな雰囲気が伝わってくる。2階には本多博士の執務室を再現した記念室と資料展示室があり、無料公開されている。重い扉を開けて目に飛び込んできたのが、当時の教授の権威が想像できるような重々しい椅子と机だ。よほど強くよりかかっていたのだろう。黒革張りの背中がすれて白くなっている。
「実は昔、同じタイプの椅子と机を使ったことがあります。スプリングが固く、座り心地は悪かったですよ」と小林さんは笑う。
本多博士は弟子たちの求めに応じ、気軽に色紙に一筆書いたという。その1枚が壁に掛かる。優しい筆遣いで書かれた文字は「今が大切」。年の初めに、いい言葉をいただいた。
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金研100周年に向けて始まったカウントダウンに合わせ、今月から、金研のある片平を中心に歴史散歩をスタートする。お付き合いいただきたい。(S)今回の散歩道マップ
[第1回] 2014年1月26日号
本多光太郎の執務室であった本多記念館内記念室。愛用の机、いす、直筆の研究ノートなどが当時のまま展示されている。